日蓮の立宗宣言から中祖日奥の秀吉への抵抗
- 1253年(建長5年) 日蓮宗立宗宣言
建長5年4月28日の午の刻(正午ごろ)、宗祖日蓮は清澄山に上り、南無妙法蓮華経のお題目を高らかに唱えて立宗を宣言された。 - 1595年(文禄4年)8月 千僧供養事件
京都妙覚寺住・仏性院日奥(1565-1630、中祖)が、秀吉の計画した方広寺大仏の千僧供養への出仕を拒否し出寺。不受不施派の起源となる事件。 - 1599年(慶長4年)11月20日 大阪城対論
家康は、日奥と出仕派日紹らを大阪城へ呼び出した上で、日奥を天下統一にとって邪魔な存在だとして「流罪」「遠島」を申し付けた。日奥は袈裟・衣・念珠をはぎ取られ対馬へ12年間の配流。この時にはぎ取られた日奥の袈裟・衣・念珠は1951年(昭和26年)になって出仕派だった京都・妙顕寺から岡山・金川の妙覚寺に戻された。 - 1630年(寛永7年)2月21日 身池対論(江戸城内)
受不施派身延山久遠寺日暹等6人は池上本門寺日樹等関東不受不施派6人(前六聖人)と対決、幕府の権力を背景に不受不施派排斥に成功した。日樹は信州伊那へと追放、他の5人もすべて寺を追われた。
短期間の平穏(1640~1665年)
- 1640年(寛永17年) 本理山自證寺の開山(若松寺の起源)
三代将軍家光の側室お振りの方は、長女千代姫を出産した3年後に体調を崩し、寛永17年8月死去。法号を自證院殿高清日恵大姉とした。家光の命により、自證院の菩提寺として、市ヶ谷(現在の新宿区富久町4-5)に10,600坪を賜って本理山自證寺と号し、日須聖人を開山とした。 - 1651年(慶安4年)
尾張藩二代藩主徳川光友夫人千代姫の命により長遠院日遵が湊誕生寺から自證寺に転じる。自證寺二世。 - 1654年(承応3年)冬
長遠院日庭、千代姫の命で自證寺に移る。自證寺三世。
寛文の惣滅 -徹底した宗派への弾圧-
土水・行路の受領手形の強制と寺受け禁止
- 1665年(寛文5年) 寛文5年の惣滅
「諸宗寺院法度」の発布(供養としての寺領の受領書の提出を要求)。日講・日澆ら7人これを拒否して追放。日庭は自證寺を追われ、以後22年間青山自證庵(旗本某氏宅)に潜伏し、布教活動を指導。長遠院日庭、自證庵一世。 - 1666年(寛文6年)3月
「土水行路までことごとく国主の供養として受領せよ」と宗派に迫る。 - 1669年(寛文9年)4月
不受不施派寺院の寺請が禁止され、禁教となる。「キリシタン不受不施信ずるものひとりもこれなく…」の文言。 - 1687年(貞享4年)
長遠院日庭は、佐渡へ配流(1692年寂)。自證庵二世長遠院日起、大島へ配流。以後、江戸中期以降は激しい弾圧で不受不施派はほぼ全滅。内信時代の始まり。
これ以降も明治初年まで数々の法難を蒙り、僧俗問わず刑死、牢死、抗議の自死、流罪、追放にあった者その数を知らず。しかし、信仰は消えず内信組織を通じて300年を生き延びた。
日蓮宗不受不施派の再興
- 1873年(明治6年)
日正聖人(後の再興法主)が麻布本村町の吉田茂太宅隣に日庭聖人の自證庵を再興(現在の若松寺境内)。ここを拠点に宗派再興運動を展開。 - 1875年(明治8年)9月
最後の法難(岡山で3名の僧が入牢)。 - 1876年(明治9年)4月10日 公許
1665年(寛文5年)の寛文惣滅以来じつに211年目に不受不施派再興と布教公許を受け、積年の悲願を達成した。今から150年前のことです。日正大聖人、麻布本村町144番地に龍華教院東京1号教会を開山。 - 1943年(昭和18年)
麻布教会所を若松寺と改称する。 - 1945年(昭和20年)5月25日
東京空襲により若松寺が全焼する。 - 1947年(昭和22年)
若松寺、全国信徒の支援により戦災復興し、庫裡を新築。同年末、信徒・加藤治郎(後の名誉九段、1910~1996)の縁で、若松寺で原田泰夫六段と土井市太郎八段が対局。原田はその後10連勝した。以後約2年間、若松寺が正式の対局場となった。この頃、後の15世名人大山康晴が棋譜を担当している。 - 1966年(昭和41年)2月・4月
若松寺本堂棟上げ。同4月、若松寺本堂完成落慶。 - 1995年(平成7年)5月
信徒会館・庫裡完成。
2026年は節目の年です
日蓮宗不受不施派再興150年 日本将棋連盟設立100年 若松寺での対局から80年
十五世名人 大山康晴 「松上萬年鶴 若松寺さん江」
出典:日本将棋連盟講演会(令和8年6月6日)当日配布資料「日蓮宗不受不施派龍華山若松寺の来歴と日本将棋連盟」より